「まあちゃん、まだ、男の人の声が聞こえてくるな……。」
「ほんとだ……」
何を話してるかはわかりませんが、人の声がしてることはわかります。
「いつまでおるんやろ? 長い話やなぁ。」
お春ちゃんが、あきれ顔で言いました。
「出直しましょうか……」
「そやな、そうしようか……。そやけど、また出てくるのもなぁ……」
2人がどうしようか迷っていると、男の人の声がしました、
「この暑いのに出歩いて大丈夫か?」
「どないしたんや? ばあちゃんもお母さんも」
オッチャンと大家さんです。
「それがな、妙ちゃんに晩の弁当持ってきたんやけど、まだ息子が帰らへんのや。ほんで、どないしよか悩んでるんや。」
「そうか。そら大変やなぁ。」
と大家さんが言いました。
「ほんで、あんたらは?」
お春ちゃんが聞くと大家さんが、
「わしら? わしらは、あんたの友達が借りてくれたやろ? どこか不便なトコないか聞きに来たんや。」
「ああ、それは有り難いわ。裏の戸の立て付け悪かったもんな。」
お春ちゃんは、嬉しそうに言いました。
「まあちゃん、まだ、吉川さんの息子らおるんやろか?」
時計を見ると、5時でした。
「あれから、もう5時間もたってるのね。もう、お話は終わったでしょう。」
とまあばあちゃんが言うと、お春ちゃんも、ほっとしたように、
「そやな。もう、帰ったわな。」
「お春ちゃん、お留守番をお願いね。ちょっと届けてきます。」
まあばあちゃんがお弁当をパックに詰めました。すると、お春ちゃんは、
「待って待って! 私も行くから。まだ息子らがおるかもしれん。まあちゃんに、なんぞされたらエライこっちゃ。」
と言うと、慌てて靴を履きました。
外へ出ると、まだまだ、暑いです。
「暑いな~。こら、かなわんな。」
「本当ね。照り返しがね……」
「帰ったら、冷たい葛饅頭食べよな!」
「そうね。熱いお茶とでね。」
「饅頭には熱いお茶が一番やからな。お茶飲んだ後の、スーッと来る冷たい風がたまらんわ。」
「本当ね。」
2人のおばあちゃんは、暑い日差しの中、シルバーカーを押して歩きだしました。
「まあちゃん、なんか落ち着かんなぁ……」
暑い太陽がやっと傾いてきたころ、お春ちゃんがたまりかねたように言いました。
「どうして?」
「どうしてって、考えてみ? 母親をたらい回しにして、退職金もコツコツ貯めた貯金も使い込んで、年金まで! み~んな取り上げてしもて……」
お春ちゃんの言葉に、まあばあちゃんもため息をつきました。
「吉川さん、年金、月に18万あるって言うてたなぁ。私の倍や。せやのに自分の自由になれへんねんもんなぁ……」
そう言って、お春ちゃんは大きくため息をつきました。
「まあちゃん、あれ見たか? あの息子の嫁はん、吉川さんがしっかり持ってた通帳をちぎれるんかと思うぐらい引っ張って持って行ってしもたな。ビックリしたわ。」
お春ちゃんは落ち着かないのか、あっちへウロウロこっちへウロウロと行ったり来たりし始めました。
「なぁ、まあちゃん、うちらホンマに帰って良かったんかな……」
「え?」
「さっき、吉川さんが息子や言うてた3人、殺気立ってて怖なかったか?」
「少しね……」
「おったらんで、ええんやろか……」
お春ちゃんが、心配そうに言いました。
「私たちがいたら、腹を割って話しできないわよ。」
まあばあちゃんの言葉に、お春ちゃんも
「まあな、他人がおったら言いにくいこともあるやろうしなぁ……」
と言いました。
「吉川さんにとってはおなかを痛めて生んだ子だし、3人の息子さんたちの2人は、神戸と愛媛から、わざわざ足を運んできたのよ。よっぽどの覚悟があったのよ。」
「そらそやな。今まで母親をのけ者にして勝手に話を決めてたんやから、わざわざ来ることもないわな。」
「それだけに、吉川さんも腹をくくって、これからのことを自分で選択して決めないと。」
いつになく力強い言葉で言うまあばあちゃんにお春ちゃんは、
「ほんまに、そうやな。」
そう言って、しっかりと頷きました。
黙とうが終わって、まあばあちゃんとお春ちゃん、そして吉川さんとお茶をしていると、表で声がしています。男の人が立ち話を始めたようです。
「なんや、気持ち悪いな。」
お春ちゃんが、気味悪そうに言いました。しばらくすると、
「ごめんください!」
と言いました。
吉川さんはその声を聴いて固まりました。そして、気を取り直したように立ち上がりました。
「ちょっと行ってくるわね。」
吉川さんが迎えに出ました。そして、3人の男の人と一緒に中に入ってきました。
「初めまして」
「お邪魔します。」
「母がお世話になっています。」
男の人たちは、それぞれに挨拶しました。
「まあちゃん、私の息子たちよ。よろしくお願いします。」
まあばあちゃんとお春ちゃんは、小さくお辞儀しました。
「それでは、失礼しますね。」
とまあばあちゃんが、言いました。
「え?」
吉川さんは少し戸惑ったようでした。
「ほな、帰るわな。」
お春ちゃんも言いました。
「まあちゃん、お春ちゃん、私と一緒に話聞いてほしいの。お願い!」
吉川さんは、そう言って手を合わせましたが、
「ごめんね。今日はジロたちを家に置いたままなの。気になるから……」
吉川さんは何か言いたげでしたが、それ以上は引き止めませんでした。
結局、お春ちゃんと一緒に吉川さんの家に行くことになりました。
門の横についてる呼び鈴を押してから、訪ねてきたのが息子さんやお嫁さんだと思ってはいけないので、
「妙ちゃん、いますか?」
と呼びかけました。
吉川さんは、すぐに出てきました。
「いらっしゃい。」
「なんや、あんたどっか行くんか?」
お春ちゃんが驚いて尋ねました。まあばあちゃんも驚きました。
吉川さんがグレーのスーツを着て、きれいにお化粧していたからです。
「ううん。今日は終戦記念日でしょ。私も一緒に黙とうさせてほしくて……。この前は本当にごめんなさい。」
「そんなのいいのよ。みんないろんな考えがあるんだもの。私も自分の考えを押し付けすぎたわ。」
まあばあちゃんは優しく言いました。
「聞いて、まあちゃん。私もどうしてあんなこと言ったかわからないの。しかもあんな高飛車に……。あの日からまあちゃんもお春ちゃんも遠いところに行ってしまうのではと夜も眠れなくて……」
「遠いところてどこやな。私ら行くとこあらへんで。」
お春ちゃんが、つまらなさそうに言いました。
吉川さんはしょんぼりしてしまいました。
「妙ちゃん、気にしないで、ね?」
「本当にごめんね。この前の天皇陛下のお言葉を聞いたとき、急に主人のいつも言ってたことがよみがえってきて、止まらなくなってしまったの。どうしてあんなこと言ったのかしら……。本当にごめんなさいい。天皇陛下にも申し訳なくて……」
吉川さんは、泣き出しました。
「大丈夫よ。天皇様は、いつも暖かく私たちのことを見守ってくださってるわ。こんなにきちんとした格好して待っててくれたんだもの。12時の黙とう一緒にしましょう。あの戦争でお国のために命を捧げた人たちのために祈りましょう。」
まあばあちゃんはそう言って、吉川さんの背中をさすりました。
「まあちゃん、トモちゃんもみんな出かけてしもたなぁ。終戦日やのに、せわしないこっちゃ。」
「いつもはお休みなんだけどね。」
「ま、いろいろあるわな。」
そういうと、お春ちゃんは冷たい麦茶をごくっと飲みました。
「お春ちゃん、ちょっと出かけてくるわね。」
「まあちゃん、どこ行くんや?」
「ちょっとそこまでよ。ジロとミミちゃんを見ててね。」
まあばあちゃんは、吉川さんのところにおはぎを持って行くとは言えませんでした。お春ちゃんは怒っているし、まあばあちゃんも複雑な気持ちでした。
「私も行くわ。ジロとミミはクーラーつけといたらええやろ。」
「家にいてればいいのに。」
「なんでそんなに嫌がるん?」
「嫌がってはないけど……」
まあばあちゃんは困ってしまいました。
8月15日の朝、まあばあちゃんはお送り団子とおはぎを作っていました。
「おはよう、まあちゃん、今日は仏さんが帰る日やな。お盆もあっという間に過ぎてしもたな。」
お春ちゃんはそう言うと、ドカッと椅子に腰を下ろしました。
「そやけど、まあちゃんが台所にいると、いつもそばにおるな。」
「このコたち? いつも足元にいてかわいいでしょ?」
「そんなウロウロされて、ようコケへんなと思うわ。」
お春ちゃんが感心したように言いました。
「この子たちが上手によけてくれるから。……朝ごはん、なんにする?」
「そら、もちろん、おはぎがええわ。まあちゃんのおはぎは一番好きやわ。ほんのり甘くて、さっぱりしてて、なんぼでも食べられる。」
「まあ!」
まあばあちゃんは、嬉しくなりました。
「そやけど、困ることもある。」
「え? なに?」
「ようさん食べ過ぎて、太るこっちゃ。」
お春ちゃんは、難しい顔をして言いました。
まあばあちゃんの足元で、キラキラした目で待っているジロとミミちゃん、お春ちゃんの表情が対照的で笑ってしまいました。
「ただいま~」
「あ、トモちゃん、お帰りなさい。ありがとう。暑かったでしょ。」
「うん。でも、近いし、自転車だから。」
「クーラー使ってた?」
「ううん。」
「使ってねって、言ってくれた?」
「言ったけど、風がよく通るから涼しいって、……扇風機はつけてはったよ。」
「大丈夫かしら?」
「大丈夫と思う。いい風吹いてたから。」
トモちゃんが、まあばあちゃんにしっかりとした口調で言いました。
「そう」
「吉川さん、嬉しそうに何度もお礼言うてはったよ。」
「良かった。じゃあ、私たちも夕飯食べましょうか。トモちゃん、並べるの手伝ってくれる?」
「うん。」
トモちゃんは元気よく返事しました。
トモちゃんは手際よくお箸や取り皿を並べていきます。
ちらし寿司と涼しげなそうめんをテーブルの中心におきました。そうめんに入れた氷がキラキラしてとてもキレイです。
お父さんが2階から降りてきて、
「あ、今日はそうめん? うれしいなぁ。」
と言いました。
「涼しそうでしょ? ……お春ちゃん、恭子ちゃん、ごはんよ。いらっしゃい。」
縁側で涼んでいる二人に声を掛けました。
まあばあちゃんは、みんなが食卓にそろう様子を見て、ふと、今頃一人で食べている吉川さんが浮かんできました。
「じゃあ、トモちゃんお願いね。」
まあばあちゃんは、お寿司の入ったお重とそうめんの入った魔法瓶をトモちゃんに渡しました。
「そんなに怒らないで、こんなにたくさん作ったんだから、少しくらいいいでしょう?」
「私は嫌やね! 付き合いやめたいくらいやもん。」
お春ちゃんお返事は身もフタもありません。
まあばあちゃんは困ったなぁという顔をして言いました。
「でもね、お春ちゃん、邪魔者扱いされて暮らすのは辛いものよ。年金があるんだし、いつもまでも私たちの世話になりたくないはずよ。」
「そやけど、今月の年金は、新しい口座には入れへん言うてたやん。次言うたら10月や。まあ、それまでは私らでも助けられるわ。でもな。あのひとみたいに、シャキッとしてなかったら、また、その年金もまた取られるんちゃうか? いつまでも面倒みられへんで。私らかていつまで生きてるか分からんし、トモちゃんらに迷惑かけんよにせんと。」
まあばあちゃんも何も言えませんでした。
「それに、私らに、あんなえらい勢いで言うんやったら、息子や嫁にもガツンと言うたらええねん。」
確かに一理あります。
「どうしたん? お春おばちゃん、暗い顔して。」
帰ってきた恭子ちゃんが二人の声を掛けました。
「それがな、今日な天皇陛下がテレビに映ってはってな。うちら手を合わせてたんや。ほんだら吉川さんが、いきなり怒りだしてな。」
「あ、陛下のお気持ちね。ビデオレターの……」
「そや、そんでな。ビデオやのに手を合わせるなんて、なんて言うてたかな。忘れたけど、とにかく『あんたら頭アホか』って言われ方されてん。そんなんあの人に言われなアカンか? うちらが天皇陛下を敬ったからってあの人に迷惑かかるか?」
「そんなこと言う人に見えへんかったわ。」
恭子ちゃんも驚いたようでした。
「わたしもや! ビックリしたわ。気の毒や思って、借りる家を探したげたり、家具運ぶのをムコさんに頼んだりしたのに、なんでそんなん言われなアカンねん。ムシャクシャするわ。」
二人が話してる間に、まあばあちゃんはトモちゃんと一緒にお夕飯の支度をしていました。今日はそうめんとちらし寿司です。お盆の間は、鶏やお肉を使う料理は控えています。
まあばあちゃんがお重にちらしずしを、そうめんは魔法瓶に入れていると、お春ちゃんが、
「まあちゃん、それ、吉川さんところに持って行くん?」
「ええ、年金が入るまでは大変でしょ? だから少しだけおすそ分けをと思って……」
「まあちゃん、そんなことしてたらナメられるで!」
お春ちゃんが腹立たしげに言いました。
「お春ちゃん、そんなに暗い顔しないで……、ご先祖様が帰ってくるのに……」
まあばあちゃんがお春ちゃんをなぐさめると、
「そやかて、暗くもなるで、上品な人やなぁ。気の毒になぁと思ってたら、あんないきなりコロッと……」
まあばあちゃんもうなずきました。
「はぁ…、そや。吉川さんから変なモンをもらいいませんようにって、祈っとこ。」
そう言って、お春ちゃんは仏壇にお線香をあげました。
いつもより熱心に手を合わせているお春ちゃんを見て、まあばあちゃんも手を合わせました。
まあばあちゃんも大切に思っている天皇陛下をあんな風に言われて、辛かったのです。
なるべくお付き合いをしたくないと思いましたが、もう、そうはいきません。
吉川さんの住んでる家は、以前、お春ちゃんが借りてたところですが、大家さんは全く知らない人に貸すのを渋っていました。だから、何度も頭を下げて無理にお願いして借りたのです。まあばあちゃんとお春ちゃんが保証人になってお家賃も前払いしました。
あの時、家に居場所がなく弱々しく泣いていた吉川さん。助けてあげたいと思いました。でも、今は別人のように思えて暗い気持ちになっていました。
「なあ、まあちゃん、人って分からんなぁ。私、今日の吉川さん見てビックリしたわ。」
お春ちゃんは、さっきまで、「妙ちゃん」と呼んでいたのに「吉川さん」になっていました。
「まあちゃんも、ビックリしたやろ?」
「ビックリしたわ……」
まあばあちゃんも素直にうなずきました。すると、お春ちゃんは、つまらなそうに、
「なんで、あんないきなり頭から怒られなアカンねんな……、私、15日の日は吉川さんの家に行くのやめとくわ。」
「そうね。うちで黙とうしましょう。」
「みんな家におるんやろ?」
「そうよ。トモちゃんもお父さんもお盆休みだから。吉川さんには、お昼と晩御飯だけ持っていきましょう。年金が下りてくるまでは大変でしょうから……」
「そやな……、そうしようか……。なんか、私らエライ人に関わってしもうたなぁ……」
お春ちゃんは暗い顔で言いました。
『天皇陛下のお気持ち』を拝聴したまあばあちゃんとお春ちゃんは、しばらくジーッとしていました。そして、
「そうよね。お歳だものね。」
まあばあちゃんはしんみり言いました。
「うちらよりお若い言うたかて、やっぱりなぁ……」
お春ちゃんもしんみり言いました。
「これ、ビデオレターよ。手を合わせるなんて、合理的じゃないわ。」
妙ちゃんでした。まるで、先生が生徒に注意するような口調です。
「「ご、合理的?」」
まあばあちゃんもお春ちゃんもビックリして言いました。
「日本を戦争に巻き込んだのよ。お二人だって、戦争で大変な目に遭ったんじゃ……、それなのに、手を合わせるなんて……」
妙ちゃんの物言いに、さすがのお春ちゃんも次の言葉が出ないようでした。
「歴史の事なら、先生やってた妙ちゃんの方が詳しいと思うけど……、戦時中の軍国主義は恐ろしかったし……、戦争は悪いことよ……。二度とあんな目に遭うのは嫌よ。でも、当時の日本は本当に不景気でどうしょうもなかったわ。それ……」
まあばあちゃんの言葉を妙ちゃんは遮りました。
「それで、侵略してもいいと……!」
お春ちゃんは、ため息をついて、
「そんなん言うけど、世界恐慌やら、イギリスやらフランスやらの既得権益とか、別に当時の中国を食い物にしてたんは日本だけちやうで? あんた、先生やったんやろ? 自分の国を守ろうとすることのどこが悪いねん。負けたらケチョンケチョンに言われるけど、それまでは踏ん張らんと!」
「お春ちゃんは戦争を肯定するの? 主人が言うには!」
「誰も、戦争がエエなんて言うてへんやろ! あんた、自分の家を焼け出されたことあんのか? あんた、そない言うんやったら、主人の言うとおりにしたら?」
「え?」
「息子のところに帰ったらエエやん! 自分がどないなってもええんやったら、別に貯金も年金も守る必要あらへん。のたれ死んだらええねん。」
妙ちゃんは、ハッとしたように黙り込みました。そして、
「ほんとだわ。こんなことばっかり言ってたから、今は丸裸なんだわ。」
そう言うと、急にしくしく泣きはじめました。
「ごめんやで。夕方言うてたのに早うなって……」
お春ちゃんが、妙ちゃんに謝りました。
「ううん。運んでもらえて、ほんとうに有り難いわ。今、お茶入れるわね。」
妙ちゃんは、嬉しそうに言いました。
「私も手伝うわ。」
まあばあちゃんがヨッコラショッと立ち上がると、妙ちゃんが、
「じゃあ、駅前で、お饅頭買ってきたの。出してもらっていい?」
「テレビつけてええか?」
「どうぞどうぞ。」
「ほな……」
お春ちゃんが、リモコンを持ったまま固まりました。そして、
「まあちゃん、ちょっと早う早う。天皇陛下のお言葉やで!」
と言って、手を合わせました
「え?」
妙ちゃんを手伝っていたまあばあちゃんが慌ててくると、天皇陛下が頭を下げておいででした。
まあばあちゃんは思わず手を合わせていました。
そして、お言葉に聞き入っていました。
「私とお豊ちゃんが、住んでた頃に使ってたもんやねんけど……、ま、当座はそれでエエやんか。じょじょに揃えていったら、私とまあちゃんも手伝うけど、ま、自分の便利のええように考えといて。」
「ありがとう。」
息子さんとの事て疲れた表情の妙ちゃんですが、お春ちゃんに励まされて少しだけ笑いました。そして、キュッと口を結ぶと、
「じゃあ、お春ちゃん、私、銀行へ行って通帳をお願いしてきます。」
「そうか。ほな、うちらは帰るわな。お金だけは肌身離さず持っときや。」
「はい!」
妙ちゃんは、お春ちゃんの言葉にポンとおなかを叩きました。ここに入ってるのよっと言うように……
「夕方な。荷物と一緒に来るわ。」
「ありがとう!」
吉川さん手を振りながら銀行の方へ歩いていきました。
「そうか~。決心したんやな。」
妙ちゃんは、しっかりと頷きました。
「息子の家にいてもシンドイだけ。家を出るって決めたら、お金はないけど心が軽くなったわ。もう戻りたくない……」
「戻らない方がいいわよ。戻っちゃダメ。いくら何でも酷すぎる。」
まあばあちゃんが言うと、お春ちゃんがパンと手を叩いて、
「さ! これから忙しなるで! 銀行に行って通帳作って、こんな事情やからよろしゅう頼みます言うて、ちゃんとしてもらわんと。」
「ありがと、お春ちゃん。」
「そんなん気にせんとき! 頭の使うことやったら、みんな私に相談しぃや。」
「うん。頼りにしてる。ありがとう。」
妙ちゃんが、涙をぬぐいながら言いました。
「それからな。うちの娘のムコさんが、夕方ごろ、冷蔵庫やらタンスやら運んでくるよって。どこに置いたらええか考えときや。」
「ええ! そんなことしてもらっていいの?」
妙ちゃんはビックリして言いました。
「かまへん、かまへん。」
お春ちゃんは、パンと胸を叩いて言いました。
次の日の朝、ジロたちの散歩を済ませて妙ちゃんを訪ねると、泣きはらして目を真っ赤にした妙ちゃんが、まあばあちゃんとお春ちゃんを待っていました。
「大丈夫? どうしたの?」
「昨日の晩、息子が来てね。考え直して、一緒に住んでほしいっていうの。」
「ほんで?」
「でも、お嫁さんに厄介者扱いされて、毎日毎日、家が狭いとか、子どもの部屋がないとか言われるのが嫌だし。どこへ行っても私の居場所がないから、これからは、一人で生きていきますって言ったわ。」
「エライわ。しっかりしてるやんか!」
お春ちゃんが、感心したように言いました。
「そしたら、急に顔色を変えて、“相談もなしに勝手なことするな”って言うのよ。」
「なんちゅうこっちゃ! 親に向かって!」
「だから、わたしも腹が立って、“これからは、年金だけを頼りに生きていくんだから、早く通帳返してちょうだい”って言ったの。返事もしないで帰って行ったわ。」
吉川さんは悲痛な表情で言いました。
「でも、ほんとにね。私、長い間、教師やってきて、子ども達に親や兄弟を大切にしなさいって、教えてきたのに、自分がこれじゃね。教え子たちに謝りたい気持ちよ。」
妙ちゃんは、深いため息をつきました。
「そやなぁ。息子が悪いのか、嫁はんが悪いのか……、はたまた両方で悪知恵を働かせてるんか。一所懸命働いてもアカンな。貯金は取られ、年金はむしり取られて、こじき同然やんか。」
「返す言葉もないわ……」
妙ちゃんはそう言って、湯呑の中を見つめました。
「ま、息子のことはもうしゃあない。今からしつけのやり直しも出来へんしな。」
「うん。」
妙ちゃんは、小さく返事しました。お春ちゃんは元気づけようと思ったのか
「あ、あんた、卵焼き食べ! まあちゃんの卵焼きは絶品やで。オニギリは私が握ったんやで! ほんで、食べたら作戦会議や!」
と言って、あれこれ進め始めました。
まあばあちゃんは、これからの妙ちゃんの人生が、少しでも良いものになればいいのにと願いました。
「あ、あんた。卵焼き焼いてきたで。食べよ。」
「ありがとう。」
「ほんで、これはオニギリや。」
お春ちゃんが、嬉しそうにテーブルにお昼を並べ始めました。
「「「いただきます。」」」
「なあ、あんた、嫁さんの方の親はどないしてるんや?」
お春ちゃんが、妙ちゃんに聞きました。
「…………」
妙ちゃんは、答えません。
「どないしたんや。黙り込んで。向こうもエライ目のおうてるんか?」
「……ううん。孫の誕生日会を一緒にしたり、一緒に出掛けたり、家でごちそうしたりしてるわ。……楽しそうよ。」
「あんたは?」
「わたしは呼んでもらえないから。自分の部屋に一人でいるの。」
「息子は黙ってるんか?」
「……うん……」
吉川さんは、お箸をおいてしまいました。
「ほんまや。まあちゃん、頭ええわ。そないしょ!」
お春ちゃんが嬉しそうに言いました。
「うん。今から銀行に行ってくるわ!」
妙ちゃんも、元気が戻ってきたようです。
「ご飯食べて、もう少しお話してから行きましょう。銀行が閉まるまで、まだまだ時間あるから。」
「でも……」
妙ちゃんは、すぐに行きたそうです。
「まあちゃん、善は急げやで。」
お春ちゃんも言いました。
「急がば回れとも言うわ。こういうことは落ち着いてかからないと、オタオタしてしまうわ。」
「そうね。……そうよ。口座もだけど年金事務所にも電話しなくちゃ。」
妙ちゃんが、ポンと手を叩いて言いました。
「あ、そやわ。」
「ほんとだわ。自分なりに考えをまとめておいた方がいいわね。」
妙ちゃんが、二人を見て言いました。目に光が戻っています。
「ほな、ご飯食べよか。」
お春ちゃんが言いました。
「これから、どうしよ……」
妙ちゃんは、顔を覆いました。
「ホンマやな……。どないしたらええんやろ……。みんなむしり取られてしもた……」
お春ちゃんは、キッと次男の嫁が消えた玄関の方をにらみました。
「妙ちゃん……」
まあばあちゃんが、遠慮がちに名前を呼びました。
「なに?」
「……きつい言い方だけど、こうなったら覚悟を決めたほうがいいと思うわ。」
「覚悟?」
「しっかり別れて、生きていく決心。」
妙ちゃんは、頷きました。
「そやな。年取って一人で生きていかなアカン人も大勢おるんや。」
と、お春ちゃんも言いました。
「でも、まあちゃん、通帳も年金手帳も何もかも取られてるんやで? どないするん? 決心したかて先立つものがないと……」
「ご飯を食べたら、銀行へ行って、新しく口座を開きましょう。次の年金はそこに振り込んでもらえば、大丈夫でしょ?」
「あ!」
「あ!」
お春ちゃんも妙ちゃんも、そうだ! という顔をして顔を見あわせました。